先日、「日の名残り」(カズオ・イシグロ著)という小説を読みました。
(※ネタばれ部分もあるかもしれないので、この本に興味がある方は、本を先に読むほうがいいかもしれません。)
この本は、執事の回顧録という体裁で、話が進んでいくのですが、話はすべて主人公であり執事であるスティーブンスの視点で語られていきます。
小説の書き方の本などには、よく「視点を固定する」ということが書かれています。
どういうことかというと、文章を書くときに、様々な人の視点で書くと読み手が混乱するため、ある特定の人の視点から書き続ける、ということです。
今度小説を読むときは、この小説は誰の視点から書かれているのか、ということに注意して読んでみるといいかもしれません。
さて、この視点ですが、この「日の名残り」というワードで検索すると、「信頼できない語り手」という記事が出てきます。
どういうことかというと、この主人公のスティーブンスは、かなりの堅物です。
関心の中心は、どうすれば「偉大な執事」たり得るのか。
彼の関心は、「品格」を備えた「偉大な執事」になることに集中しています。
すべての出来事は、この「品格」と「偉大な執事」という価値観を中心に語られていきます。
途中で、スティーブンスは、恋愛小説を読む場面があるのですが、読んでいて、それを女中頭に見つかる、という下りがあるのですが、スティーブンスは、恋愛小説を読んでいた理由を、「英語力を維持し、向上させるのに、非常に優れた方法」と語られています。
ここで大半の読者は、「あれ?」と思うはずです。
英語力を維持させ、向上させるのに、恋愛小説??と思うのではないかと思います。
つまり、彼の価値観からすると、執事が仕事の合間に恋愛小説を読んでいる、というのは受け入れがたいことなわけで、この行為を自分の価値観に合わせるために考え出した理由が、「英語力の維持、向上」ということなんじゃないかな、と思うわけです。
つまり、このスティーブンスの視点は、すべて「品格」や「偉大な執事」という価値観を色濃く反映していて、語られていることも、その価値観を強く反映している、これが、「信頼できない語り手」と言われるわけのようです。
大半の物語は、誰かの視点から語られていて、現象の説明にも、その人の価値観が入ってきます。
「でも、価値観をいれずに客観的に物事を記述できるのでは?」と思われるかもしれません。
ここで、私は思うんですが、「客観」とは誰の視点のことなのでしょう。
世の中に存在する人は、何らかの価値観を通して物を見ているのです。
とすると、客観とは誰の視点なのか、とか、なんの価値観にも縛られずに、現象を記述する、ということは可能なのか、という疑問がでてくるわけです。
松村潔氏の本では、「客観は主観の集合」と書かれていたのを思い出しました。
何かを知りたいときには、ほかの人の意見など多くのデータを検証して、それが真実なのかどうかを確認しようとする。だが、これは数が多いものを選ぶという姿勢でしかなく、これは妄想を違う妄想ですり合わせているだけなので、長い期間にとんでもない思想や社会的習慣がつくられていく。
「分身トゥルパをつくって次元を超える」(松村潔著)(107ページ)
いわゆる科学法則も、観測や客観的な視点から作られていると思いがちですが、実際には、科学的な法則は、科学者の信念が作っている、と書かれていた本も読んだことがあります。
松村潔氏の本では、「視覚は思想の反映である」という記述がよくでてきます。
目から入ってくる視覚情報は、客観的な目の前にある像を映し出している、と思いがちですが、実際には、自分が見えると思っているものしか見えない、自分がそこにある、と思っているものしか見えない、ということです。
物語についても、視覚と同じようなことが言えるのかもしれないなあ、と思いました。
少し深い読書体験ができました。